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最後のSaaS巨大市場HR Techに挑む、PeopleX 橘氏には何が見えているのか

2024.05.31

投資先

最後のSaaS巨大市場HR Techに挑む、PeopleX 橘氏には何が見えているのか

シードラウンドで16億円超の調達を発表したPeopleX。これは弁護士ドットコムで「クラウドサイン」を育てたシリアルアントレプレナー橘大地氏と、その市場性への投資家の期待の証である。橘氏が狙うのは、スタートアップが群雄割拠にも思えるHR Tech。この領域に賭ける思いと可能性をPeopleX橘大地氏と、シードラウンドに参加するファーストライト 岩澤に聞く。

ーー4月1日に創業され、6月3日にはシードラウンドでの16億円超の調達を発表されました。

PeopleX 橘:ファーストライトを含む3つのVCなどから出資いただきました。まだ売上が0の段階で、このような金額を投資いただき、みなさんの期待の大きさを感じています。

ファーストライト 岩澤:4月1日に橘さんが創業をリリースされ、そのリリースが出た瞬間に30ほどのVCからアプローチがあったと聞いています。これまでも様々なスタートアップのシードラウンドを見てきましたが、ここまでのケースはないです。改めて、スタートアップ業界での橘さんと橘さんが狙っているマーケットの注目の高さを感じました。

ーーそれほどまでに注目を集めているのは、橘さんのこれまでの経験があってこそですね。これまでのキャリアについて、改めて教えてください。

橘:多分、起業家として珍しいのは、弁護士事務所で企業法務の弁護士だったことでしょう。

もともとサイバーエージェントの藤田晋さんへのあこがれがあって、スタートアップを支える弁護士になりたいと思い、弁護士事務所では50社くらいのスタートアップを担当しました。会社設立、利用規約の整備、人を雇用する、上場準備をする、というスタートアップのはこうやって成長するんだなと見てきました。

私よりも若い経営者もたくさんいました。まだ私も28歳、29歳で、だんだん自分もいつかは起業したい、やるなら早い方がいいと思うようになりました。

2015年、弁護士ドットコム創業者の元榮太一郎と話す機会があり、「クラウドサイン」の構想を聞きました。当時は、まだまだハンコ文化が根強く、リーガルテックという言葉もありません。法律周りのスタートアップといえば、弁護士ドットコム一択でした。

元榮が、クラウドサインの事業責任者をやってくれる弁護士を探していると言うのを聞いて、これは自分がやるしかない、と思いジョインしました。

株式会社PeopleX 代表取締役 CEO 橘 大地
東京大学法科大学院卒業。弁護士資格取得後、株式会社サイバーエージェント、GVA法律事務所にて弁護士として企業法務活動に従事。2015年、弁護士ドットコム株式会社に入社、クラウド契約サービス「クラウドサイン」の事業責任者に就任。2018年4月より同社執行役員、2019年6月より取締役に就任。2023年より株式会社PeopleXを創業し、エンプロイーサクセスプラットフォーム「PeopleWork」の開発、運営を行う。

ーー弁護士としてスタートアップを支えるのと、ご自身が事業をするのはかなり差があったのではないですか。

橘:いや、意外とできるものだな、と。2015年はSaaS黎明期で、SmartHR、ベルフェイスもそのころに創業していて、SaaSに対して知見のある人がおらず、みんなが素人で一緒に勉強しました。

岩澤:当時はアメリカでSaaSが流行っていましたが、日本ではプレイヤーがまだそれほどいません。アメリカのモデルを研究して日本向けにカスタマイズできるかチャレンジし始めるところが出てくるゴールドラッシュの様相でした。その中で、橘さんはものすごいスピードでクラウドサインを立ち上げられました。

橘:電子契約の領域は、時価総額が5兆円を超えるDocuSignやアドビという超大型プレイヤーがいる中で戦い、今はシェア1位です。

岩澤普通、これほどのメガプレイヤーがいると、始めようとする人がいない。でもそれをやる。しかも勝つ。それが橘さんです。この経験は本当に稀有で、ほかには見当たりません。

橘:クラウドサインはARR60億円に達しています。SaaS全体で見ても上位10位くらいなのですが、1プロダクトで、しかもSaaS初プロダクトでゼロから営業網を広げてこの規模になっているのはほかにないかもしれません。

岩澤クラウドサインは、ARPUがそれほど高くないにも関わらずこの規模に急成長させたところがすごい。

また、多くのSaaSは、業務フローをデジタル化してシステムで置き換えて効率化するものがほとんどです。一方でクラウドサインは、商習慣そのものを変えに行った。しかも海外メガプレイヤーもいる中に後から入って、何十年も変わらなかった日本のハンコ文化を変えに行ったわけですから、難易度が全く違います。

ファーストライト 代表取締役 マネージング・パートナー 岩澤 脩
慶應義塾大学理工学研究科修了後、リーマン・ブラザーズ証券、バークレイズ・キャピタル証券株式調査部にて 企業・産業調査業務に従事。その後、野村総合研究所での、M&Aアドバイザリー、事業再生計画立案・実行支援業務を経て、2011年からユーザベースに参画。執行役員としてSPEEDAの事業開発を担当後、2013年から香港に拠点を移し、アジア事業の立ち上げに従事。アジア事業統括 執行役員を歴任後、日本に帰国。2018年2月にUB Ventures(現ファーストライト・キャピタル)を設立し、代表取締役に就任。

橘:当時の法律では、電子署名はほぼ使えませんでした。不動産賃貸でもだめ、訪問販売でもだめ。電子署名法は一応あったのですが、双方事前登録が必要だったり、誰も使いたがらないような規格でした。そんな状況だったので、「そもそも、伸ばしようがないのでは?」と周りからは言われました。

法律改正しないと絶対に伸びない市場だったので、ロビー活動もしっかりやりました。海外勢の方が日本でのロビー活動に強い面もあります。アドビやDocuSignとも最初は別で戦っていたのですが、コロナで電子署名の社会的にニーズも高まり、急遽、仲間になりましょうと、私が代表理事を務めていた業界団体、一般社団法人クラウド型電子署名サービス協議会にお声かけして加盟していただきました。結果的に、法律を30以上変えました。

ーーリーガルテックを開拓した橘さんが、次なる市場としてなぜHR領域に目をつけられたのでしょうか。

橘:アドビやDocuSignといったメガプレイヤーは資金力も開発リソースも桁違いです。シリコンバレーの優秀なエンジニアが相当な開発力でグローバルに展開していきます。ある意味で、製品機能の差で勝つことは難しい。クラウドサインが勝てるとしたら、人の才能や実力を遺憾なく発揮すること、リスクを取って先行投資をすること、この2つしかないと思っていました。クラウドサインは多い年で、1年で100人くらい採用したのですが、自分自身で採用し育成し、人の力で勝ってきたと思っています。

これは、クラウドサインだけでなく、我が国にも当てはまります。アメリカや中国のような国と戦っていくうえで、資金力、開発力だけを見ると、日本はなかなか厳しい局面を迎えるでしょう。労働人口は、自国民だけでは確実に今後減っていく。労働生産性を上げていかないと、国全体のマクロで相当悲惨な現実がやってくるので共同戦線を張らなきゃいけないというときに、労働生産性は、OECD38カ国中30位に留まっている。その原因の1つが、従業員エンゲージメントの低さにあると見ています。米国調査会社ギャラップの調べでは129カ国中128位です。従業員のスキルとエンゲージメントを上げない限り、生産性が上がるわけがありません。

自分の原体験とこの国の未来を考えたときに、従業員エンゲージメントを1位にしていく、この領域にしようと決めました。

岩澤クラウドサインが成熟期に入っている中で、橘さんは次のチャレンジをしたいという起業家精神が燃え始めたのが先ですか?それとも、クラウドサインの経営の中で、この課題を見つけたことが起業のきっかけですか?

橘:いつかは起業したいという思いはずっとありました。ただ、クラウドサインで自分が採用、育成をしてきた従業員が200人以上いて、もう自分だけの人生ではありません。辞め時を自分では決められないというか、決めちゃいけない。クラウドサインの累積赤字を全部解消し、元榮が国会議員の間は留守を預かっていましたが経営に戻ってきました。今なら卒業しても拍手で送り出してもらえるんじゃないかというタイミングが来たのです。自分で挑戦するなら、どの事業ドメインにしようかと半年くらい考えてたどり着いたのが、HR領域でした。

日本の課題が深く、残りの人生を惜しみなくかけられるのがHR領域だと考えて、米国、日本の市場を調べました。世界では、Workdayという圧倒的なブランドがあり、時価総額が11兆円くらいです。世界ではSalesforcesと同じくらい存在感のあるプレイヤーだと思うのですが、日本市場を見るとそういった外資系プレイヤーが、売上規模で見てもそれほどの存在感にはなっていない。

なぜ普及しないかというと、これまで日本の大企業は新卒一括採用だったからです。様々なバックグラウンドやスキルを持つ人を同じ会社に迎え入れるアメリカとは違いました。新卒一括採用が主流の日本で求められるのは異動履歴の管理ぐらいで、ニーズがなかったわけです。

これがどう変わっていくのかを考えてみました。まずは人的資本経営が注目され、IR目線で経営指標になってきています。

2つ目は中途採用シフトです。10年前まで従業員に占める中途採用比率は10%くらいだったのが、今は大企業を含めても45%ぐらいになってきた。おそらく、3年後には70%になると見ています。

もう1つは、リスキリングとスキルアップ。労働人口が減ってくると、採用によって補うことも難しくなってくる。現有戦力で戦うしかなくなると、リスキリングはより重要になってくるのです。

この3つの文脈で、社会が変わっていくモメンタムを感じて、スキルアップとエンゲージメントの2つをHRの中でも注力していこうと考えています。

岩澤:SaaSには、HR、CRM、ERPの大きく3つの領域があり、それぞれが世界的に非常に大きなマーケットです。海外のSaaSマーケットと比較すると、日本は歪な構造になっていて、確かに、HR領域だけがゴソッと欠けていました。プレイヤーが出てきてもちょこちょこという感じで、大手の海外プレイヤーが出てこない。「魔物が住んでいるマーケット」とも言われてきたのですが、今、まさに動き始めていると感じています。

中途採用比率の上昇に伴い、HR系SaaSの成長率がぐっと伸びてきています。加えて、HR領域のSaaSのバーンマルチプル(新規でARRを1億円獲得するために、どれだけ費用を投下したかという指標)はCRMやERP系SaaSに比べるとかなり低い。これは、ベンダーがマーケティングに大量のお金をかけなくても、市場が自然に顕在化している証左ではないかと考えています。ずっと開かなかったHRの市場が、ようやく開いてきた、と。

日本では、人材の流動性がこれまでは本当に低かった。だからオンボーディングするニーズがないし、リスキリングしなくても、企業の中の人口動態を保っていれば事業活動を継続できた。ところが、ここ数年で団塊世代の方たちの引退により、日本企業の人口動態が劇的に変わっている。

これまで、中途比率を上げろ、離職率を下げろと、株主からのプレッシャーや国のガイドラインで言われて、日本企業は何となくやってみようかな、という感じだった思います。ところがここ2年ぐらい、結構、本気になってきた。なぜならば、約50%が中途採用の社員で、その3割ぐらいが1年以内に辞めてしまうというデータもある。コストをかけて採用するのに、あっという間に辞めるので、機会損失が大きく、まずいということに大企業はようやく気づき始めたのではないでしょうか。

橘:中途採用の場合、入社した人は人事部が預かるのではなくて、事業部に配属されて現場が育てるので、正直、現場のメンター次第のところもあります。商談がたくさん入っているエース級のプレイングマネージャーが担当すると、放置状態。同期もいないので、同期同士で教え合うこともできない。いわゆる「配属ガチャ」状態で、もしかしたら活躍すべき社員がミスマッチだったということはどの会社にもあるはずです。

ーーその課題感に対して、PeopleXではどのようなサービスを準備されているのでしょうか。

橘:米国でコロナ以降に伸びているのがヒューマンコネクションプラットフォームです。日本企業でも、イントラネットや社内ポータルで、先輩社員はどんな人かなと検索したら、スキルとか趣味がでてきたものがありましたが、それを更新して活用できるようにしたイメージです。現状では、配属情報しか載っていない企業も多くて、例えば「マーケティング部、以上」、というように情報が不足しています。デジタルマーケティングに詳しいのか、オウンドメディアに強いのか、展示会が得意なのか、過去の経歴などを見られるプラットフォームを検討しています。

もう一つはオンボーディングの型化です。オンボーディングプログラムは大体100から150のアクティビティがあると言われていて、これを見るだけで自動的に成長する、といったものです。マネージャーオンボーディングも重要です。マネージャーに昇格したら、「おめでとう」で終わりということも多いですから。本当は、入社したときだけでなく、マネージャーになったとき、異動したときなど、人は常に何かのオンボーディング過程になるはずです。

ということで、人同士の交流、エンゲージメント、イネーブルメント、スキルアップなど、そういうところから取り組むつもりです。

これらはどんな企業でも、基本的に共通項があり、コンサルもして一緒に作りましょうともお話しています。多様な外部研修をどう組み込むかも会社ごとに最適に設計していきます。弊社には、LUUPやVoicyといった急成長したスタートアップのCHROクラスの人材が複数ジョインしています。みんな多分葛藤してきたのでしょう。HRは華々しいものではなく、異動とか、場合によっては解雇を経験している。色々な葛藤がある中で、私自身はエンプロイサクセスの領域にフォーカスしていこうと思っています。会社が社員を管理する人事管理システムではなくて、従業員側のためになるものを作っていきたいです。

ーー日本でもHR領域のスタートアップはすでにいくつもあるようにも思います。

岩澤: 確かに、HR領域はすでに著名なプレイヤーがいるレッドオーシャンと見る向きがあります。しかし、客観的なデータを見ると、1000名以上の大企業が1万2000社ぐらいあるうち、既存のHRのSaaSプロダクトが導入されているのはざっと10%ぐらいではないでしょうか。大企業だけを見てもまだ90%ぐらいの余白がある。これで、レッドオーシャンと言えるでしょうか?

海外では、CRM、ERP、HRはとてつもなく大きな市場になっているのに、日本だけHRが立ち上がらない理由はありません。その余白に対して、むしろ全部取って行くようなプレイヤーが出てくるのではないかと見ています。

ーー海外プレイヤーがこの市場を席巻する可能性は?

橘:シチュエーションとしては十分あり得ます。

岩澤:そこは橘さんの、ファウンダー・マーケットフィットです。クラウドサインで、証明されたように、海外のメガプレイヤーがいる中で、堂々と戦ってこられた経験が生きるはずです。普通の起業家にはできないことです。国自体の大きな流れをとらえて、そこに自分から働きかけ、さらに、対外資系に対する戦い方を分かっている起業家でないと多分戦えない。

ーーかなり多くのVCが橘さんにお問い合わせされたということですが、橘さんはなぜファーストライトからの出資を決めたのですか。

橘:今回のシリーズは、ある意味、共同創業者探しに近かったです。岩澤さんはSaaSの事業経験のある稀有なキャピタリストでもあり、一緒にPeopleXを成長させていただけるとありがたいなと思っていました。

岩澤:弁護士ドットコムにいた橘さんと、ユーザベースでSPEEDAの立ち上げをやってきた私は、創業者を支えるポジションで事業を司るという意味で似ていると、勝手ながら親近感を持っていました。その橘さんが、もう一度、ゼロからやるんだと聞いて、頭をハンマーでたたかれたような感じがして、これはやっぱり応援したいと思ったのです。

ーー今後はどんな成長を期待していますか。

岩澤:PeopleXには国産SaaSとして2,000億円の売上を作れるサービスになってほしいと思いますし、それが実現可能な市場規模です。ある意味、市場の蛇口が一気にひねられて開いている状況です。国産で、かつグローバルにも出ていくサービスになってほしい。気づいたら世界で戦っていて、日本のSaaSだったんだと言われる、そういうポジションを5年後にとっていることを楽しみにしています。

橘:BtoB SaaSは敗戦の歴史でした。ただ、Salesforceもマイクロソフトも、日本では日本人が経営してきたわけで、日本人も運営はできるんです。ただ、グローバルでは日本人は誰も挑戦すらしていない。Saleseforceに勝とうと思っている企業はほぼいないんです。少なくとも私はそこに挑んでいきたいと考えています。

岩澤:日本のSaaSには「ずらす」文化があって、海外プレイヤーのいないところで勝とうと最適化していく。生き残るためにはもちろん必要なのですが、結果的に小さくなってしまいます。どれだけ広い業種で、どれだけの部署に、いくらの単価で売れるかという3つの変数しかありません。

PeopleXは、ずらさずに、真正面からHRという巨大市場にチャレンジしてほしい。これは橘さんにしかできないと信じています。これまでのプレイヤーと同じことをしていたら同じぐらいのことしかできないので、当たり前を壊す取り組みができるのか、期待しています。


編集:久川 桃子 | ファーストライト・キャピタル エディトリアル・パートナー
撮影:小池 大介
2024.06.05

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