
はじめに
「30億ドルでの買収が目前だったAIスタートアップのCEOが、交渉破談の直後、従業員250名を置き去りにしてライバル企業に引き抜かれた」
これは2025年7月、実際にシリコンバレーで起きた「Windsurf事件」の概要です。わずか72時間の間に繰り広げられたこの衝撃的な展開は、「スタートアップ業界で見た最も狂った72時間」とまで評されました。激化するAIエンジニアの引き抜き競争の中で、ビッグテックが編み出した「アクハイヤー(人材買収)」と呼ばれる新たな手法が、スタートアップエコシステムの根幹を揺るがしています。
※この記事は、ポッドキャスト「VIVA VC」シーズン2第5回をもとに作成しました。番組では、Windsurf事件がスタートアップ業界に与える影響についてさらに詳しく語っています。ぜひお聴きください。
30億ドル買収から破談、そして衝撃の「人材買収」へ[06:38-07:27]
この事件の中心となったWindsurf社(元Codeium)は、2021年にMIT出身の2名が創業したAIコーディングツール開発企業です。
2025年5月、OpenAIがWindsurfを30億ドルで買収するための独占交渉に入ります。しかし、OpenAIの大株主であるMicrosoftが、買収成立後にWindsurfの知的財産(IP)にアクセスできるという既存契約が障壁となりました。Windsurf側がこれを懸念して交渉は難航し、7月初旬、買収は正式に破談となったのです。
ところが、破談発表とまさに同日、驚くべきニュースが業界を駆け巡りました。CEOのVarun Mohan氏をはじめとする創業者と主要スタッフが、競合であるGoogleに移籍することが発表されたのです。これは「アクハイヤー(Acqui-hire)」と呼ばれる手法で、会社全体ではなく、最も重要な「人材」だけを獲得するものです。GoogleはWindsurfの知的財産の非独占ライセンス契約の対価として24億ドルを支払い、破談となった買収額とほぼ同等の金額で、会社の心臓部だけを巧みに引き抜いた形となりました。
置き去りにされた従業員と崩れた「暗黙の了解」[10:23-10:48]
この「人材買収」で最も深刻な問題となったのが、残された200名以上の従業員の処遇でした。CEOと主要技術者が去ったことで、彼らは完全に「置き去り」の状態となったのです。
Business Insiderの報道によれば、Googleから支払われた24億ドルを手にできたのは一部のVCと初期から株式を保有していた従業員のみで、過去1年以内に入社した多くの従業員は、一円も受け取ることができませんでした。これは、「経営者と従業員は、成功時の大きなリターン(株式)を信じて、目先の低い給与を受け入れる」という、スタートアップ業界における長年の暗黙の了解を根本から覆す、前代未聞の出来事でした。
この危機的状況を救ったのが、残された事業責任者のJeff Wang氏でした。彼が週末返上で交渉をまとめ、プログラミングAIエージェント「Devin」を提供するCognition社が、約3億ドルで会社を買収しました。これにより、路頭に迷っていた従業員の雇用は確保されましたが、当初期待された30億ドルには遠く及ばない、苦い結末となりました。
規制をすり抜ける「アクハイヤー」という新たな常套手段[14:14-15:01]
Windsurf事件は氷山の一角に過ぎません。米メディアThe Informationによると、同様の手法はすでに多数報告されています。
- Character AI: Googleが27億ドルのライセンス料で主要人材を獲得
- Inflection AI: Microsoftが6.5億ドルで同様の手法を実行
- Scale AI: Metaが143億ドルで主要人材を獲得
これらに共通するのは、正式な「買収」ではなく「ライセンス料+雇用契約」という形を取り、規制当局によるM&A審査を回避している点です。この問題の根源は、「株式売却を伴わない実質的なExit」という法制度の盲点を突いていることにあります。表面上は「IPライセンス契約」と「個人の自由意志による転職」に過ぎないため、株主保護条項などが発動せず、実質的な買収が野放しになってしまっているのです。
投資家 vs 起業家?業界に走る激震と反発[17:01-18:14]
この手法に対して、業界、特にベンチャーキャピタルからは強い反発の声が上がっています。著名投資家のVinod Khosla氏は、「創業者が従業員を置き去りにし、リターンで報いない」と公然と批判し、「次回、彼らとは仕事をしない」と明言するほど、強い拒絶反応を示しました。
これまで、ベンチャーキャピタルと起業家は「同じ船に乗るパートナー」として、長期的な企業価値の向上という共通の目標を目指してきました。しかし今回の事件は、その信頼関係を揺るがし、「投資家 vs. 起業家」という新たな対立構造を生み出しかねない、深刻な事態となっています。
AI時代の新たなコーポレートガバナンス:VCと起業家が取るべき対策[18:46-21:12]
このモラルハザードを防ぐため、新たな契約設計やガバナンスが急務となっています。
VCとしても、短期的な利益ではなく、長期的な企業価値向上にコミットできる誠実な経営者かどうかの見極めを、これまで以上に強化する必要があります。
おわりに
Windsurf事件は、AI時代における「タレント・ウォー(人材獲得戦争)」の熾烈な現実と、従来の投資契約やコーポレートガバナンスの限界を浮き彫りにしました。
一方で、Jeff Wang氏が実現した救済買収は、残された全従業員が経済的恩恵を受けられるようにストックオプションの権利確定を前倒しするなど、一つの希望的な道筋も示しています 。この混乱を契機として、契約条項の革新やガバナンス改革を通じて、より強靭で公正なスタートアップエコシステムを再構築していかなければなりません。
何よりも重要なのは、私たちベンチャーキャピタルと起業家との間の信頼関係です。短期的な利益追求に走るのではなく、長期的な価値創造を共に目指すパートナーシップこそが、健全なエコシステムの基盤なのです。7月の「最も狂った72時間」から得た教訓を活かし、AI時代にふさわしい新たなルールづくりが求められています。
※この記事は、ポッドキャスト「VIVA VC」シーズン2第5回をもとに作成しました。番組では、Windsurf事件がスタートアップ業界に与える影響についてさらに詳しく語っています。ぜひお聴きください。
執筆 : 岩澤 脩 | ファーストライト・キャピタル 代表取締役・マネージングパートナー
編集 : ファーストライト・キャピタル | リサーチ・チーム
2025.8.18
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