
ファーストライトキャピタルは、これまでさまざまなSaaS企業への投資を行い、SaaS Annual Reportなどを通じた情報発信にも力を入れてきた。
2021年頃からは、従来のSaaS領域にとどまらず、「ハードウェア × SaaS × AI」という複合領域にも投資対象を広げている。
当時、ハードウェアとSaaSを掛け合わせた領域は市場にほとんど注目されていなかった。しかし、私たちは、ここにAIが融合することで、日本の製造業をはじめとする「現場」に真のイノベーションをもたらすことを確信している。
これは、単なる生成AIブームの文脈ではない。むしろ、日本がAI領域で国際的なプレゼンスを確立するための数少ない機会と捉えるべきだ。
シリコンバレーのスタートアップは、初期からグローバル市場をターゲットに膨大な資金を調達し、迅速にスケールを追求する。一方、日本のスタートアップは国内市場に注力するケースが多く、グローバルなスケールを最初から意識した開発や資金調達が困難である。
こうした状況を打破し、日本のスタートアップがグローバル市場で競争優位を確立するためには、日本特有の複雑な産業構造を深く理解し、現場で培われた細やかな対応力や継続的改善の文化——いわゆる「現場力」を戦略的に活用する必要がある。
実際、日本企業がグローバルなB2B市場で高く評価される理由の一つは、現場の課題に対して実践的かつ具体的な解決策を提供している点にある。日本の産業現場で長年培われた細やかな対応力や継続的改善力は、世界的にも希少な強みとなっている。

私は、この日本特有の「現場力」とデジタルトランスフォーメーション(DX)を融合させることで、シリコンバレー発のスタートアップには模倣困難な、持続可能なグローバル競争優位性を確立できると信じている。
本記事では、「製造業×AI」の持つ可能性、そして日本発のグローバル展開に向けた展望について考察する。
「現場」の巨大DX市場はこれから本格的な成長期を迎える
近年、米国を中心としたソフトウェア産業においては、従来の汎用的なホリゾンタルSaaSが広く普及してきたが、製造、建設、物流といった特定の産業分野には、それぞれ独自の業務フローや商習慣が強く根付いているため、画一的なソリューションだけでは十分な成果を挙げられないという課題があった。
こうした背景のもと、特定業界のニーズに特化したバーティカルSaaSを提供するスタートアップ企業が米国で台頭し、市場で一定の地位を確立しつつある。
すでに米国を筆頭とする先行市場では、バーティカルSaaSの導入が進んでおり、以下の4つの側面で価値を創出している。

① 構造化データ処理能力:顧客情報、在庫管理などデータベースやワークフローに適した構造化データの処理に優れる
② 業務効率の改善:既存の業務プロセスをデジタル化し、生産性の向上を実現
③ 従量課金モデルの導入:ユーザー数や利用状況に応じた柔軟な課金体系を構築
④ 情報の体系的な管理:業務プロセスのデジタル化により、データの一元管理を可能にし、組織的な効率性を高める。
日本においてもバーティカルSaaS市場は徐々に拡大しており、特に製造・建設・物流など「現場」のDX市場が今後の成長を牽引すると期待されている。
実際に、図面データ活用で企業のDXを実現するプラットフォームを提供するキャディや、建設業向けの業務管理サービスを展開するアンドパッドといった企業が、日本におけるバーティカルSaaSの代表的な成功事例として挙げられる。
一方で、これらの産業におけるDX推進には課題もある。現在、成長を遂げているバーティカルSaaSの多くは、バックオフィスの業務効率化に主眼を置いているが、実際の「現場作業」に関しては、シームレスなDXソリューションがまだ十分に提供されていないのが現状だ。
日本の製造・建設・物流業界は、長年の業界慣習や複雑なワークフローが根付いており、ソフトウェア単独でのDX推進は難しい。
さらに、技術サービス記録、品質保証記録、サプライヤー監査報告書、生産レポート、品質管理画像など、多岐にわたる非構造化データが業務プロセスに存在しており、その収集・活用の余地はまだ大きい。
ここで重要となるのが、IoTやエッジAIといったテクノロジーの活用による「現場データ」の取得と、現場作業のスマート化である。これらの技術を駆使することで、バーティカルSaaSの価値をさらに高め、産業のDXを加速させることが期待される。
例えば製造現場では、IoTセンサーを用いて設備や機器の稼働状況、温度や振動などの環境データをリアルタイムで収集し、エッジAIを駆使して画像データから不良品検出や品質予測を行うなど、データを活用した意思決定の迅速化や作業プロセスの自動化が求められている。これにより、単なる業務効率化にとどまらず、品質の向上や異常予測によるトラブル防止といった付加価値も提供できる。
米国では、IoTハードウェアとバーティカルSaaSを融合させた企業が急成長しており、2022年に上場したSamsara社がその代表例だ。同社は、現場で取得した物理データをAIで迅速に分析し、リアルタイムで意思決定を支援することで成功を収めている。

* Samsara社 ホームページより
日本においては、人口減少による労働力不足と高齢化が製造・建設・物流業界の大きな課題となっており、現場業務の生産性向上と効率化が急務である。そのため、現場業務のデジタル化や自動化は、単なる業務効率化にとどまらず、産業全体の持続可能性を確保するための重要なインフラと位置づけられる。
特に、物理的な現場データを高度に解析し、リアルタイムでの意思決定支援やプロセスの自動化を可能にする生成AIソリューションが重要だ。これにより、日本の「現場」DX市場が本格的な成長期を迎えるための不可欠な要素となる。
シリコンバレーを中心とするソフトウェアスタートアップ領域では、世界のアーリーアダプター層を最速で獲得するため、企業間競争が激化している。一方で、製造・建設・物流といった現場業務主体の業界では、グローバルにおいても業務プロセスのデジタル化が十分に進んでおらず、バーティカルSaaSへの期待は高まり続けている。
日本固有の産業構造からAI領域の強みをつくる
このような状況のなかで、なぜ、日本が「製造業×AI」に注力すべきかを4つの観点でお伝えしたい。

まず、一点目は、日本経済における製造業の影響力の大きさという観点である。
日本のGDPにおいて製造業は約2割を占めるとされており、依然として主要産業の一つとなっている。この製造業分野でのイノベーションが実現すれば、生産性の向上、付加価値の高い製品開発、さらには国際競争力の強化をもたらし、日本経済全体に大きな波及効果を生むことが期待できる。
特にAI技術を導入し製造現場の効率化が進むことは、国内製造業が抱えるコストや労働力不足などの課題を克服する重要な鍵となり、日本経済の持続的な成長を力強く牽引していくだろう。
二点目は、労働力人口の減少という観点である。
日本の人口減少が進む中で、特に労働力不足が深刻なのは建設・物流・製造業といった現場業務を伴う分野だ。ロボット技術などの研究は進んでいるものの、失われる労働力を補うには至っていない。2040年には1,100万人の労働人口が不足するとの試算もあり、各産業で抜本的な業務効率の向上が求められている。
三点目は、「職人不足」の解消だけでなく、「技術進化」の加速という観点である。
製造現場では職人不足が深刻化しており、技能伝承が大きな課題となっている。AI導入により、これまで人間の感覚に依存してきた微細な工程管理や品質維持をデジタル化し、可視化・定量化できるようになる。
これは単なる職人技の継承を補完するだけではなく、新たな技術革新を促し、製造プロセス自体を根本から進化させる可能性を秘めている。
そして、日本の製造業「現場」こそがAIのデータの源泉であるという点だ。
ChatGPTをはじめとした米中が主導する汎用的なLLM市場はすでに飽和状態にあり、技術的にもサービス面でも大きな差別化が難しい状況になっている。その結果、日本企業が同領域で持続的な競争優位性を確立することは現実的ではない。この状況下で日本企業が目指すべきは、他国が簡単に模倣できない「現場」特有の質の高いデータを徹底的に収集・活用することである。
特に製造現場の熟練職人が蓄積してきた暗黙知や多次元的な感覚データなど、インターネット上には存在しない独自のデータをAIに取り込み、新たな価値創出を図る必要がある。しかし、製造・物流・建設といった現場業務向けのAIを実現するためには、現場のオペレーションデータの蓄積が不可欠だ。
このデータを収集するには、IoTやセンサーを活用した業務SaaSを導入し、効率化を進めながら、同時にAI開発に必要なデータを蓄積していくというアプローチが求められる。
例えば、私たちの投資先である匠技研工業は、部品加工業向け原価計算システム『匠フォース』を起点に、工場経営におけるマルチモーダルデータ取得に取り組んでいる。同社は、部品加工に関する標準原価や図面情報をデータベース化し、適正価格算出に必要なデータを統合的に収集・活用することで、工場経営における利益率向上や技術承継を実現している。

このような取り組みを通じて、職人の感覚を数値化し、生産性向上や品質管理精度の飛躍的な改善が可能となる。また、AIモデルが熟練職人や経営者の意思決定を支援・代替することで、工場経営の精度向上と新たな付加価値創出が期待されている。
・人口減少による課題先進国をアドバンテージにする
・日本のこれまでの強みである製造業の基盤を活かす
・日本にしかない現場の強みをいち早くデータ化していく
これらが組み合わさることで、競争力のある「製造業×生成AI」のエコシステムが構築され、この領域に取り組むスタートアップには飛躍的な成長の可能性が広がる。
製造業の職人は「マルチモーダルデータなエッジAI」?
製造業のDXといえば、これまでは手書き書類のデジタル化やSaaSの導入が中心だった。こうした取り組みは業務効率化には貢献するものの、製造工程における本質的な意思決定を支えるものではなかった。
実際の現場では、単なるデータ分析だけでなく、機械の動作状況、温度や湿度といった工場環境の要素を掛け合わせ、最適な生産量や工程を決定している。この「研ぎ澄まされた意思決定プロセス」を、いかにAIが担うかが本質的な課題となる。
現在、製造業では熟練職人の技術継承が深刻な問題となっている。職人たちは、長年の経験をもとに、日々変化する工場環境や素材の状態を即座に判断しながら、最適な対応を行っている。

このプロセスは、単なるデータ処理ではなく、視覚・音・温度・手触りといった複数の知覚情報を統合的に解析するさながら「マルチモーダルなエッジAI処理」と捉えることができる。
この熟練技術を継承するためには、ハードウェアやセンサーを活用し、AIと組み合わせることが不可欠だ。
AIが人間の意思決定プロセスをシミュレーションし、実際の作業に反映できるようになれば、知識の伝承がよりスムーズに行われ、製造業の生産性向上にもつながるだろう。
これからも日本の製造業が競争力を持ち続けるために
かつて「製造業大国」と称された日本だが、近年、その競争力の低下が顕著になっている。経済産業省の「ものづくり白書」でも、スマート化・デジタル化の遅れが指摘されており、日本の製造業は地盤沈下の危機に直面している。
一方、米国ではCopilotやAIエージェントなどの先端技術の導入が加速し、すでに多くの企業が成果を上げている。日本企業もAIの活用に関心を示し、数多くのPoC(概念実証)を実施しているが、本格導入には至らず、依然としてスピード感を欠いているのが現状だ。
現在、日本企業の多くは業務プロセスの一部にAIツールを導入するなど、部分最適化にとどまっている。しかし、これから求められるのは、企業全体を最適化するAIソリューションだ。これを実現できた企業こそが、次世代の市場をリードするだろう。
AI時代において競争力を維持・強化するには、戦略的にデータを収集・活用し、実際の業務に組み込んでいく視点が不可欠だ。日本の製造業が世界市場で優位性を保つためには、いかに迅速かつ大胆にAIを活用できるかが、今後の成長を左右する重要なカギとなる。
執筆・編集
頼嘉満 | ファーストライト・キャピタル マネージングパートナー
早船 明夫 | ファーストライト・キャピタル チーフアナリスト
2025.03.31
ファーストライト・キャピタルでは、所属するベンチャーキャピタリスト、スペシャリストによる国内外のスタートアップトレンド、実体験にもとづく実践的なコンテンツを定期的に配信しています。コンテンツに関するご質問やベンチャーキャピタリストへのご相談、取材等のご依頼はCONTACTページからご連絡ください。
ファーストライト・キャピタルのSNSアカウントのフォローはこちらから!